みきみきつんぱ かるていは

根拠はとくにないです

私はどこにいるのか

最近、自分について考える機会がちょいっちょいっとあったので、いくつかに分けてまとめてみようと思いました。

また、昔の人がどんな風に考えていたのかも興味があるので、これから書くことに似たようなことを言っている人、まったく違うことを考えていた人を知っていたら、ぜひ教えてほしいです。

───────────
過去に自分が思っていたことのメモをパラパラ~と振り返ると、すごく調子に乗っている時期と、すべてダメダメでダメな時期とかあって、面白いです。私は片時も私でない時がないのに、おんなじ自分をあるときは良いものに、あるきはゴミとして見なします。
こんな風に、膨張と収縮を繰り返す私像は、リアルな膨張と収縮である体重の増減よりも、ずっとダイナミックに起こっています。そしてその変化は一時も休まることはなく、肺のように、心臓のように、私をいかしているのかもしれません。

私は私のもので、私こそ世界で一番私を理解しているんだ!…と思ってしまうこともありますが、私はどの段階も私像として、正確ではないと考えています。
自分で思う私像でさえ、時によって触れ幅がこんなにあるものです。今思っている私像は、私像の一部にすぎないんです。

そしてさらに問題なのが、自分のほとんどを占めるのは、他者のなかにある私だってことです。

周囲の人々は、自分が考えていないようなことでも、私が考えたこととして受け取っています。「今絶対○○って思ってるでしょ~」もそうだし、こうした文章を他の人が読んで噛み砕いた、その時だって同じです。
だから、自分の思う私像と他者のなかにある私像は、必ずしも一致しないわけです。
でもだからといって、片方が正しくて、もう片方が間違っているとは言えません。

今のところ、内側の私と外側の私は互いに影響を及ぼしあうもので、決して綺麗にスパッと二分できるようなものじゃないと考えています。私が他者を正確に理解できないように、自分を正確に把握することもできない。私は薄く薄く、世界の一部として広がっているのではないでしょうか。

〈色づく世界の明日から〉をみて

アニメを見るのが好きです。〈色づく世界の明日から〉は、今期みているアニメのひとつです。
2018年11月10日現在、6話まで放送されました。これからの展開が楽しみです。が、今思っていることは今しか思えないので、今のうちに書いてしまおうと思います。感想文です。
あらすじについては、公式サイトを見ていただくのが一番正確でわかりやすいです。ちょと重いけど、とってもきれいなのでぜひ飛んでみてください。

www.iroduku.jp

少女はむかし、自分に魔法をかけた。“わたしは幸せに なってはいけない”

物語の始まりは数十年後。
日常の中に小さな魔法が残るちょっと不思議な世界。
主人公の月白瞳美は17歳。魔法使い一族の末裔。
幼い頃に色覚を失い、感情の乏しい子になった。
そんな瞳美の将来を憂えた大魔法使いの祖母・月白琥珀は魔法で瞳美を2018年へ送り出す。
突然、見知らぬ場所に現れ戸惑う瞳美の視界に鮮烈な色彩が飛び込んでくる……


主人公の瞳美ちゃんは相変わらず色が見えない、魔法がうまくいかないと悩んでいますが、写真美術部の一員としてなじんできました。しかしその代償として、今度は部員との関係で思い煩います。ほかの部員たちも、自分の悩みと、自分と他の部員との関係で悩んだりします。
学園ものらしい展開、とても高校生らしいふるまいですが、この作品は、よりその様子が精緻に描かれているような気がしています。

個人の心の揺れ動きと、個人対個人の関係性の揺れ動き、写真美術部という小さな人間社会の関係性の揺れ動きが、グラデーションのようにつながっています。それはまるで画面をぼんやりと覆う虹のような、そんな雰囲気です。
たとえ白黒でも、その間の豊かな灰色たちがあって、その様々な灰色たちが瞳美ちゃんに世界を見せてくれています。白と黒は真逆ですが、断絶されていません。好きと嫌いの間もそう…かもしれません。

この物語は、写真と絵、モノクロとカラー、過去と未来、上手くいくいかない、好きと嫌い、大人と子供、現実と幻想みたいな、色んな対立軸が描き出されています。しかし、それぞれの対立軸の間に深い断絶はありません。区切ることの難しいグラデーションや、あるいは、同一のものを別の視点でとらえたような、根幹ではつながりのあるものだったりします。

物語に登場するいろんな人たちは、これらの軸の間を絶えず揺れ動いて、その揺れが、写真美術部という小さな社会に変化を、彩をあたえています。そしてゆくゆくは、瞳美ちゃんが元の世界に戻ったときに影響するのでしょう。
魔法はこの世界で、みんなを幸せにしたり不幸にさせたりするものと説明されます。魔法は、それぞれの間で揺れ動く個人や社会にちょっと働きかけをします。魔法屋で売られている星砂に、学校のプールを凍らせたり天井を破壊するほどの大きな力はありませんが、人は星砂の小さな力をきっかけに変化していくこともあります。傘が風で飛ばされた、はたから見るとそれだけですが、物語にかかわる人たちにとっては一大イベントです。そして、そのきっかけを作ることができるのは、自然と、魔法です。

魔法が絡んだ学園ドラマはいっぱいありますが、この〈色づく世界の明日から〉は、個人と社会と魔法が、まるでシャボン玉の虹のように、繊細で、美しく、複雑で、動きを持ったものとして輝いているように思います。
続きが楽しみです!

キラキラと正体

ダンテが神曲のなかで言うには、天国はまばゆい光に満ち満ちたところで、一般ピーポーの目は、その光に耐えられないのだそうです。

光、キラキラは、天上世界におはす方々だけのものではありません。キラキラを身に纏いたいのは地上の人間も同じです。
私にとってキラキラは、演奏会のときに身に付けるものです。光るものが好きなので、出店とかがあるとつい吸い寄せられて、あの衣装にはこれが合うだろうか、こっちの方が舞台映えするだろうか、と勝手に悩みだします。キラキラを眺めているのが幸せなんです。
けれどもそんなキラキラも、華やかな衣装を身にまとった踊り子さんを前には畏縮します。
踊りの衣装は、遠くからみても輝いていますが、近くだともっともっと凄いんですよ!全身に散りばめたキラキラが、ライトの光をうけて輝きだします。

踊りの伴奏をする時、ついうっとり眺めてしまうのですが、ある本番で、そのキラキラに酔ってしまうことがありました。普段の練習ではそんなこと起こらないので、初めてそれを体験したときは、目眩が辛くて怖くて演奏を続けることができませんでした。
─────────────

私が踊り子さんに感じたキラキラは、身に付けた衣装が光をうけて輝くだけではなく、踊りの動作に宿るエネルギーや、踊り子さん自身から発せられるもの、そして、踊りや踊り子さんに対してもつ私の憧れや尊敬の念、その他もろもろの入り交じった総体的なものなのかなと、思っています。
太陽の目を焼き付ける白い光が様々な色の光を含んでいるように、私の目にはただだだキラキラとしてしか目に映らない輝きも、プリズムを通せば七色の姿を現すかもしれません。

そんな様々なあれこれからなる輝きを、私の目は受け止めきることが出来ませんでした。その場を正しく、冷静にみることが出来ませんでした。
神曲に戻りますが、(私のようなちんちくりんと比べるのもおこがましいですが)ダンテはキリストと会ったとき、キリストから発せられるまばゆい輝きを受け止めきれず、その姿をみることはかないませんでした。キラキラというのは、その人が受け止めきれなかった様々なキラキラの要素が、体外に溢れ、目を覆ったときに見えたり、感じたりするのかもしれません。

キラキラは人を惹き付けます。でもキラキラは、その真の姿を覆い隠してしまいます。私たちが過去に抱くキラキラとした思い出は、その輝きの分だけ真実と離れているかもしれません。キラキラは太陽の光のように、この世界に明るさや暖かさをもたらすだけでなく、私たちの目を焼き付け、一生の傷を負わせるかもしれません。
でもだからこそ、その真実の姿を、あるがままを見たくて、キラキラに吸い寄せられていくのかもしれません。
そんな感じで、今日もブレスレットを物色してきました。

烙印を押されたビスケット

私はビスケットが大好きです。特に、塩がまぶしてあるやつが大好きです。

この前お店に行ったら、ビスケットのなかでも一番好きなやつの、訳あり大袋が売っていました。訳ありなので、いっぱい入ってて、なおかつ安い!もちろん迷わず買いました。

訳ありの「訳」とはすなわち割れで、焼きむらを指す、と書いてありました。しかし、今回たまたまそうだっただけかもしれませんが、結局割れているものは一つもありませんでした。焼きむらに関しても、素人目には全然分かりませんでした。欠陥なんてない、みんなちゃんとビスケットでした。

どうやらビスケット界は、相当エリート社会のようです。人間社会とは求められるレベルが違います。ちゃんと正規価格で販売されるビスケットたちは、基準をクリアした超エリートたちであって、ちょっとでも欠陥があると、訳ありとされて、私のお腹におさまるしかなくなるのです!

焼きむらは、もしかしたら味や食感にも影響が出るのかもしれませんが、少なくとも私には、みんなとっても美味しく感じられました。つまり、私基準ではみんなバッチリクリアした訳です。

基準が変わると、良いものもダメになったり、反対に、ダメなものが良くなったりします。その境目は非常に曖昧です。

私たちはビスケットではありませんので、「あなたは駄目です。あなたは正規の価値はありません。」と言われることはありませんが、それでも、様々な基準がもうけられているなかを、何とか生きています。試験は最も分かりやすいかたちですが、そうでなくても、ブスと美人みたいな、計量しにくいモヤッとした基準で測られながら、毎日を過ごしていると思います。

その基準をクリアできればいいのですが、私の場合、ほとんどクリアできずにいますから、自暴自棄になりがちです。もう無理ダメって何回つぶやいただろう。

でも、この訳ありビスケットたちは、とっても美味しかったです。これは確かなことです。私も、ひょっとしたら、まだ出会っていない基準でさ、合格点をもらえるのかもしれない…。

そんなことを考えていたら、大袋のビスケットたちは、いつのまにかどこかへ消えていました。

みきみきつんぱ かるていは

先日ふと思い出した歌があります。

いーーけなぃんだ いけなぃんだ
せーーんせーに いっちゃーおー

いーーけめんだ イケメンだ
せーーんせーに いっちゃーおー

小学生のとき、事あるごとに歌っていた歌は皆さんにもあると思います。

しーらんぺったんごーりーらーの
けーつーおーどーりーー

みきみきつんぱ かるていは
yesかnoか 半分か


これらの歌は、幼稚園、あるいは小学校で生活していくうちに、みんな勝手に覚えて、でも小学校を卒業すると、不思議とみんな歌わなくなりますよね。
子供だけが歌う、魔法のような歌です。

私はふと、〈みきみきつんぱ〉を歌いたくなりました。
〈みきみきつんぱ〉はとても歌らしい歌です。
〈みきみきつんぱ かるていは〉は「君、君、パンツ はいてるか?」という意味です。わざと音をひっくり返して問いかけます。音をひっくり返して、さらに、普段絶対に使わないような「…か?」の問いかけの形でリズムを整えてあります。こんな風に言葉を歌にしてあげると「パンツはいてる?」って聞きやすくなるし、何より、普通に訊ねるよりずっと楽しくなります。

たずねられる方も「ねぇ、パンツはいてるの?」って聞かれたらドン引きですが、〈みきみきつんぱ〉なら楽しくなります。



私は〈みきみきつんぱ〉を歌いたかった。けど、それは叶いませんでした。
すっかり西洋的な音階が染み付いてしまって、歌うぞ!って思うと、バチッとそのモードになってしまうんですね。とても悲しいです。でも仕方ありません。教育が行き届いてしまった結果です。
〈みきみきつんぱ〉は歌ですが、限りなく言葉に近く、かっちり型にはまった音高など必要ありません。けれどもただの朗読ではなく、そこにはリズムがあって、節があります。言葉は言葉でも、特別な言葉であり、まるで呪文のようです。


楽しい楽しいこれらの歌は、学校生活を通してほとんどの人が共有します。
しかし卒業とともにその歌と別れを告げます。〈みきみきつんぱ〉もそのひとつです。
これらの歌は子供時代という特別な時間を象徴する、子供だけが唱えることのできる魔法のような歌だと思うんです。